日本でもよく耳にするようになった、Diversity & Inclusion(ダイバーシティ&インクルージョン)。経済産業省では「ダイバーシティ経営」を重要政策のひとつとして推進しており、競争戦略として取り入れる企業も増えてきました。
ですがまだまだ日本では馴染みが薄く、「何を指すのかよくわからない」「イメージができない」という方も多いのではないでしょうか。
そこで今回は、なんと日本の鎖国時代にダイバーシティ(多様性)を説いていた吉田松陰の言葉をご紹介し、その背景や考え方をご紹介します。
それではいってみましょう!
吉田松陰の名言
人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も、各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)して大成する時は必ず全備する所あらん。
是れ亦年来(ねんらい)人を閲(えっ)して実験する所なり。人物を棄遺(きい)せざるの要術、是れより外(ほか)復(ま)たあることなし。
人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも一つや二つのすぐれた才能を持っているものである。全力を傾けてひとりひとりの特性を大切に育てていくならば、その人なりのもち味を持った一人前の人間になることができる。今まで多くの人と接してきて、これこそが人を大切にする要術であると確信した。
松陰神社 – 吉田松陰語録
吉田松陰の生い立ち
吉田松陰は1930年に長門国(現在の山口県)の萩で生まれ、6歳で叔父である兵学者・玉木文之進の養子となり、9歳で長州藩の藩校である明倫館の教授見習いになっています。そして11歳の時には長州藩の藩主毛利敬親の前で講義をするまでに。(なんと早熟な・・)
そしてその頃、アヘン戦争で清が英国に敗北したことを知り、日本の未来に強い危機感を持つようになります。
20歳の時には長崎を訪れ、オランダ船に乗船し、西洋諸国の技術の高さと日本の遅れを痛感。
そして1954年、松陰24歳の時に米国のペリーが浦賀に上陸。なんとその時に松陰は、同行を願い出た金子重輔とともに小舟でペリーの船に接近し、俺を米国に連れていけ!と直談判したのです。ですがペリーはその要求を拒否、松陰の密航はかないませんでした。
密航を企てた理由は、ペリー達に渡した手紙に書いてありました。「私たちは世界を見てみたい。」と。
松陰は、「西洋諸国に対抗するためにはその実態を見て研究し、日本の国力を上げるしかない」と考えていたのです。
しかしその願いは叶わず、時は鎖国時代、禁を破った松陰たちは投獄されます。松陰が投獄されたのは、長州の「野山獄」。そしてその獄中の体験が、冒頭の名言を生み出すこととなります。
「福堂策」とは?
松陰が投獄された「野山獄」には、11人の囚人がいました。全員松陰より年上でしたが、松陰は間もなくその信頼を得て、獄内で孟子の講義を始めることになります。
囚人たちはみな、いつ出獄できるか分からず、生きる希望を失っていました。その様子を見た松陰は、獄を単に「刑罰を受ける場所」ではなく、「罪を償い更生成長できる場所」にしたいと考えたのです。
そして松陰が提案したのは、「よし、みんなで習い事を始めるのはどうだ??」
松陰はひとりひとりの長所を見つけるのが上手で、書や俳句など、それぞれが得意なもので「師匠」になり、互いに学び合うようになったのです。
自分の存在が認められ、人から必要とされることで、生き生きと他者に貢献をする囚人たち。それを見ていた看守たちも、松陰の教えを受けるようになったそうです。
その後松陰は、その実体験をもとに、「牢獄を『福堂』にするべし!」と獄制の改革案をまとめました。それが「福堂策」であり、その中で述べられた一節が冒頭の言葉です。
信頼関係を構築し、ひとりひとりの個性を認め、能力を育み、他者への貢献、組織への参画を促す ― まさにダイバーシティマネジメント!!
なお、「福堂策」には、囚人による自治や学芸の推奨といった提案も含まれているそうです。ここにも松陰の人間性への信頼が表れていますね。
『松下村塾』はグローバル&ダイバーシティ!
松陰は1年2か月の獄中生活を経て出獄。1857年、松陰28歳の時に、叔父が荻にある自宅で開いた私塾『松下村塾』を継ぐこととなります。
松陰の運営方針は、まさにグローバル&ダイバーシティ!
- 学ぶ意欲のある者は、身分や階級に関係なく受け入れた。武士だけでなく、僧侶、町人、農民も。
- 兵法、論語、歴史、地理、政治など幅広く指導。特に世界情勢を学ぶために「世界史」を重視。
- 松陰の一方的な講義ではなく、塾生同士が議論を行うゼミナール形式を採用。
また、松下村塾とは別ではありますが、母や妹、近所の女性たちが集まる「婦人会」という勉強会もあったそうです。松陰は女性教育への関心も示しており、女学校設立を提唱していました。
封建主義の世の中で、極めて限られた情報しか手に入らない時代に、驚くべき発想力と実行力です。
松陰が松下村塾を担っていたのはわずか一年ほどの期間でしたが、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治維新の原動力となった多くの人材を輩出しました。その教育の質の高さが伺えます。
1858年、松陰29歳の時、幕府の政策を批判し、老中殺害計画を企てたことで再び投獄。翌年死罪となり、享年30歳の若さで生涯を終えます。
まとめ~日本のダイバーシティ
「ダイバーシティ」とカタカナにすると、何だか遠い世界の概念みたい・・だけど江戸時代の日本でもその思想を持って教育にあたっていた人物がいるとなると、なんだか身近に思えませんか?
古代の昔より、諸外国の文化を受け入れ発展してきた日本にとって、実は「多様性」というのは受け入れやすい考え方であると私は感じています。
「国の施策だから」とかあまり構えずに、柔軟な気持ちでD&Iを考えていけたらいいですね。
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